| 尤 06 |
抜けるような青い空。
柔らかな日差しに爽やかな風が頬を撫でる。
皮肉なほどに今の気分とは真逆だ。
「八雲、行くぞ。」
そして、こんな時でも律儀に朝の迎えに来た剣持は一目でそれとわかるほどに憔悴しきっていた。
一睡もしていないのだろう。
それどころか研ぎ澄まされた神経が針のようにぴりぴりと辺りの空気を震わせている。
顔色はひどく悪いのに落ち窪んだ目だけが充血してギラギラしていた。
行き交う生徒達がそっと彼を避ける程度には只ならぬ気配を全身から発している。
無理もない話だ。
ずっと追い求めた敵を目の前に何も出来ない夜はさぞ辛かった事だろう。
八雲とて昨夜は眠れなかった。
夜の闇の中で１人まんじりともしない思いを抱えて、日が昇るのをただ待っていた。
「昴生、大丈夫か･･･？」
「･･････。」
八雲の問いかけに剣持は何も返さなかった。
穏やかな、いつもと何の変わりもない朝だ。
教室に馴染みの面々がいないことを覗けば。
だが、それも朝のＨＲでＳＧコースはしばらく戻らないと言われれば気にする生徒もなかった。
穏やかな天気にいつもの教室で、剣持と八雲の二人だけはじりじりと焼けるような焦燥感を抱えて時間を過ごす事になった。
夕は登校してきているはずだが、１年の教室で騒ぎがあったという話もない。
(やっぱり･･･)
剣持以外に手を出す気はないようだ。
とりあえず今のところは、だが。
ほとんど時間を潰すためだけに二人は授業を受けていた。
もちろん内容など全く耳には入らない。
放課後が来るまでの時をこれほど長いと感じた事はなかった。
最後の授業が終わると同時に二人して席を立つ。
向かうは１−Ｂ
｢八雲。お前は来なくていい。｣
廊下を急ぐ剣持が振り返りもせずに言い放つ。
｢馬鹿言うな。｣
１人で行かせたらいつ暴走するかわかったものじゃない。
それに八雲には確かめたいこともあった。
「守ってやれる余裕はないぞ？」
頑なな背中を見やりながら八雲は微かに笑みを浮かべる。
「そんなもの･･･必要ない！」
参戦する気ははなからないし、自分の身だけ守ればいいならいくらでもやりようはある。
剣持はそれ以上何も応えなかったが、言外に“好きにしろ”と言っているようだった。
廊下を曲がり、階段を駆け下りればそこは１年の教室が並ぶ。
放課後の楽しげな空気と和気藹々とした学生達をかき分けるようにしながら、二人は急いだ。
一番手前が１−Ａ、次が１−Ｂ･･･
そこまで来て、二人して息を飲む。
姫宮夕･･･いや、この場合は天魔の尤だろうか。
彼女が教室の前に立っていたからだ。
しかも二人を見つけるなり、楽しげに手を振って見せた。
「やっぱり来たね。待ってたんだよ。」
「くそ･･･っ！」
「昴生！」
その場で抜き身の刀を振り回さんばかりの勢いの剣持を素早く制止する。
これでは昨夜と変わらない。
「場所、移すんだろ？旧校舎でいいよな？」
挑むように問いかけると尤はまたハープのような澄んだ声で笑いながら応えた。
「うん。そこでいいよぉ。じゃあ、行こっか、八雲くん？」
夕とは違うどこか甘えるような口調で上目遣いにこちらを見上げながら。
新校舎から旧校舎までの道のりはさして遠くない。
同じ学校内なのだから当然だ。
だが、その距離をこれほど遠いと思ったことは無かった。
傍らを歩く剣持は決壊寸前のダムのように怒りを溜め込んでいて、その気配や息遣いの全てから憎しみが溢れ出している。
一方の尤は楽しげに笑い、スキップなどしながら歩いていた。
もっとも彼女も笑顔の下から滲み出る殺意は尋常なものではなくて･･･そんな二人に囲まれた八雲は歩くごとに精神力を削られる思いだった。
旧校舎は様々な噂が飛び交う場所だった。
割れた窓ガラス、朽ちかけて剥がれ落ちた壁。
数年前になんだか色々あったようで、単に壊れた建物というよりも禍々しい空気が染み付いている。
その不気味さから近寄る生徒もほとんどない。
多少、二人がやりあっても大丈夫だろう。
まず、他の生徒に被害が出ない。
次に教官達にもバレにくい。
それだけで充分だ。
崩れ落ちた建物の残骸を踏みしめながら少し進んだところで剣持が尤の方へ振り向いた。
「俺の用件は･･･わかっているんだろう？」
彼女は笑みを絶やさない。
「うん。わかってるよ。」
「それなら、話は早い。」
今度こそ、とばかりに剣持が刀に手をかける・
「あー、俺から一つ質問！」
はいはーい！とばかりに八雲が手を上げた。
「なぁに？」
「昨日から気になってたんだけどさ、何で昴生に固執してるわけ？」
「知りたい？それはねぇ、彼を殺したいからだよ。その鼻をそいで、耳を切り落としてね･･･それから･･･」
彼女の話が終わらぬうちに八雲は思わず
「あれ？」
と、素っ頓狂な声を上げた。
尤と剣持の二人が怪訝そうにこちらを見る。
無理矢理どこからか何かを流し込まれるような奇妙な感覚があった。
(これって、またー！)
その正体に気付いた時には遅かった。
ブレーカーでも落としたかのように視界が闇に染まる。
そしてー･･･
薄暗い洞窟だった。
蝋燭の炎だけが頼りなげに揺らめいて、ごつごつした岩肌を照らしている。
「白面様、復活おめでとうございます。」
人の形に似た天魔が数匹。
その後ろには様々な天魔達が居並んで、同時にひれ伏した。
崇められてるのは少年だ。
雪のように白い肌に血のような真っ赤な瞳を持つ彼は、多くの天魔達を見下ろしながら微笑んだ。
「そうだね。外にやっと出られて良かったよ。封印の中は退屈だったもん。早く血が見たいなあ」
そう呟いて巡らした視界の隅に見知った天魔を見つけた白面は短く命じた。
「そこのお前、前へおいで。」
「は、はい！」
呼ばれたのは可憐な少女だった。
白い柔らかな体毛と薄い紫の炎を纏う、知能も高い比較的上級の天魔だ。
もっとも、性格は相当に残忍だったが。
「お前に名前をあげようと思うんだ。」
「あ、ありがとうございます！」
鬼王から名を貰えるなど、まずない話だ。
彼女は伏して礼を言った。
「名前はね“尤”だよ」
彼は彼女の前に立つとにこやかに微笑んで、蹴り飛ばした。
その強烈な一撃に彼女は吹き飛ばされ、近くの岩にしたたか背を打つ。
ぱらぱらと彼女の打ちつけられた岩の一部が砕けて落ちた。
「白面様！何を･･･。」
驚きと恐怖で見上げる天魔に白面が吐き捨てる。
「ボクはね、封印の中からお前をみていたよ。･･･人間の子供を逃がしたね？しかも、油断して攻撃までくらっちゃってさ。情けない！」
「あ･･････。」
すぐに思い当たったのか少女が青ざめる。
この少年は一見優しげだが、残忍さは彼女の比ではなかった。
怒らせたらただでは済まない。
良くて八つ裂き。
悪ければ･･･どうなるのか想像するのも恐ろしい。
「すみません。こんな事はもう二度と！お許しを」
地に額を擦り付けて懇願する。
「でもね、怒っているんだよ、ボクは。この責めはその身で償ってもらわなくちゃ。だけど、君があの時逃がした子供を殺せば許してもいい。」
「ありがとうございます。必ず。すぐにでも！」
彼女は思いの外容易な条件に嬉しくなって顔を上げた。
「うん。」
見上げた少年はこれ以上ないくらいに優しく微笑んでいる。
「でも、ただ殺すんじゃ簡単すぎて面白くないよね？」
「え？」
「とりあえずその力と記憶を封じよう。」
「白面様！そんな･･･」
「手をお出し？」
「あ･･･イヤ･･･」
怖い、と彼女は思った。
白面の笑顔がどんどん深くなる。
楽しげに嬉しそうに。
怯えて首を振ると、後ろから現れた他の天魔に押さえつけられた。
「その名の意味の通りに･･･」
白面が呟いて彼の血よりも赤い刀を振り下ろした。
「キャアアアアアアアアアアア！」
悲鳴が洞窟内にこだまする。
「うん。綺麗な血だ。ボクは人間の血を見る方がもっと楽しいけれど。」
満足げに頷いた彼は地面でのたうつ尤の脇腹を蹴り飛ばす。
「もし、あの子供を見つけて記憶が戻ったら、少しだけ封じた力を解放してあげるよ。それでちゃんと殺せたら、力は全て戻るしその名も捨ててもいい。せいぜい頑張るんだね。」
少しずつ全てが薄れていった。
白面の声も焼けるような手の痛みも。
どろどろに溶けて消えていく。
時間にしてほんの数秒。
しかし次に目を覚ました時、彼女は全てを忘れていた。
「わたしは･･･誰？･･･尤･･･。わたしは尤。どうしよう。それ以外何もわからない･･･。」
薄暗い洞窟の中だった。
辺りには何か得体の知れないものがたくさんいる。
「上手くいったね。さあ、遊ぼう？」
背後で声がした。
何だろうと彼女が振り向く前にもう１度同じ声。
「ただ許すんじゃボクが面白くない。尤を捕まえて引き裂いた者は重用してあげるよ。さあ、どっちが勝つかな？」
ざわざわと周囲の何かが歓声を上げた。
直後に背後から殺気を感じて彼女は本能的にそれを避ける。
僅かに掠めた牙が頬の肉を切り裂いた。
大きな獣が飛びかかってきたのだと理解すると同時にまた別の攻撃。
「嫌っ！･･･何･･･？」
わからない。
一体自分の身に何が起きているのか、全くわからなかった。
ただ、逃げないけない。
掴まったらきっと殺される。
それだけ感じて彼女は一目散に駆け出した。
暗い洞窟の中で灯りもなしに、勘だけを頼りに走る。
ざわざわと得体の知れない闇が後を追ってくるのを感じた。
怖い。
逃げるしかない。
この手には追ってくるものを切り裂く武器はない。
「やだ･･･怖い。誰か、助けて･･･！」
涙混じりの声は誰に届く事もなく消えていく。
彼女は白い体毛を自身の血で真っ赤に染めたまま、どこまでもどこまでも走り続けた。
「ーーー･･･ッ！？」
停電が復旧した時のような感覚だった。
唐突に目の前が明るくなる。
ここは旧校舎の１階。
ガラスのない窓から夕日が差し込んの影を長く長く伸ばしている。
動揺してふらついた足が割れたガラスの欠片を踏み割って小さな音をたてる。
それで八雲と剣持と尤の三人はやっと我に返った。
長い白昼夢。
「ふぅん。八雲くんは力なくしたんだと思ってたのにぃ。見られちゃったね。」
最初に口を開いたのは尤だった。
どうやら今回は全員が伊吹の送る像を見せられたようだ。
(伊吹のヤロー！散々人の体で試したからチューニングはＯＫ！とかそんな感じなんだろうな。絶対、これ以外で手貸す気ないし。)
「尤が剣持に固執する理由って訳か･･･？」
「そ。バレちゃったから今更隠さないよ。剣持くんを殺して、わたしは天魔に戻るの。邪魔しないでね。」
世間話でもするような気安さで彼女が笑う。
「殺すのはこっちだ･･･ッ！」
遂に怒りの頂点に達した剣持が刀を抜いて切りかかっていく。
白刃が夕日に煌いた。
「昴生、ちょっと待･･･」
「下がってて、邪魔だよッ！」
まだ少し尤と話そうとしていた八雲は、彼女に思い切り突き飛ばされた。
さすが天魔の力というべきか。
突き飛ばされた衝撃で八雲は数メートル吹き飛んで、壁にしたたか全身を打ち付けた。
「う･･･痛っ･･･てぇ･･･。」
痛みに霞む意識を奮い立たせ辛うじて顔を上げると、見ている前で尤が天魔へと変貌を遂げる。
白い制服に身を包んだ華奢な少女は、白い柔らかな体毛と炎を身に纏う。
そして、振り下ろされた剣持の刀をその手で･･･いや、その手から伸びた長い爪で受け止めた。
きぃん、と金属がぶつかり合うような音がする。
「キサマ･･･！？」
交叉した刀と爪とを見やった剣持の目が驚愕に見開かれる。
普段の夕は直接攻撃する術を持たない。
せいぜいが状態異常を引き起こす技だの、回復で味方を補助するだのが関の山だった。
それがこれほどの力を持っていようとは。
「うひゃひゃひゃひゃ。ダメだなぁ、剣持くんは。忘れたの？この爪で引き裂いてあげたんじゃない･･･ママの鼻。」
古傷を抉っていたぶるように尤が笑った。
「･･･殺す･･･ッ！」
剣持の体から殺気が溢れ出す。
後ろに飛びのいて体勢を整えた。
「かわいいね、ぼく。いいこと教えてあげる。きみのパパの胆、とーっても美味しかったよ。」
「父を、愚弄するなぁ･･･ッ！魔狼、銀河！！」
まばゆい光が剣持を包み、現れた魂神が彼の力を増す。
「キミをあの時逃がしちゃったおかげで、たくさん酷い目にあったんだもん。ちゃぁんとお返ししてあげる。」
尤は笑って鋭利な爪を振りかざした。
互いに一歩も譲らぬ戦いだ。
二人の影が離れてはまたぶつかり合う。
その度に響く、金属音。
そしてたまに飛び散る血飛沫と、痛みを堪える呻き声。
眼前で戦う二人を八雲はなす術もなく見守っていた。
(どうする･･･？今の俺に何が出来る？考えるんだ、時間はあんまりないから早く。)
無論、剣持が殺されるような事態だけは避けたかった。
彼が八つ裂きにされる様子なんか死んでも見たくない。
だが、同時に尤の命を絶つことにも躊躇いがあった。
結崎が悲しむ。
あの爆発の最中に身を挺してまで庇うほどの相手だ。
失ったらどれほど辛いか想像も出来ない。
それに、剣持が殺したと知れれば只では済まないだろうという心配もある。
親の仇だと言ってもどこまで理解されるかわからない。
それくらい夕は皆から大切にされていた。
八雲だって彼女の事は妹のようにいつも可愛く思っていたのだ。
目の前で見ていなかったら今の事態を信じられなかっただろう。
彼女が天魔である事は知っていても、彼女が残忍な天魔であるなんて皆思いもしないに違いない。
(ああ、そうだ。それでも夕が実は残忍な天魔だった、っていうなら討つのも仕方がないんだ。)
魔を討つのが月詠退魔班の宿命だから。
彼女が完全な魔であるならそこに躊躇いはいらないはずだ。
だが、八雲にはずっと考えていた事があった。
昨夜から度々感じる違和感。
(尤の行動･･･どう考えてもおかしいんだよな。)
病院で、八雲を人質に取れば剣持の動揺を誘えただろう。
もしくは、夕が尤だと気付かせる前に不意打ちをくらわせても良かった。
あの場であのまま戦い続ければ確実に、彼女が勝ったはずだ。
だが、それをしなかった。
そして今日、わざわざ決着をつけるために旧校舎まで来た。
校内で戦えばこれまた人質は腐るほどいる。
教官達はＳＧコースメンバーの代わりに退魔に出ていると聞いたから、あそこで戦えばやっぱり彼女が勝っただろう。
最後に、先程の行動だ。
八雲をわざわざ突き飛ばした。
巻き込んだって構わないだろうに。
もしくは本当に邪魔ならその爪で引き裂いてしまえばよかったのに。
昨夜から彼女は勝ちを逃すような行動ばかりだ。
剣持との戦いは望むが、他を巻き込む事は自分が不利になってもしない。
(それって･･･天魔の考え方じゃないよな･･･。)
尤の中に夕が残っているという事だろうか。
もし、そうなら尚更彼女を殺させるわけにはいかなかった。
だが、憎しみ合う二人の戦いを止める術がわからない。
(くそ、どうしたらいいんだ。こんな時。)
そうこうしている間にも、戦闘は熾烈を極め･･･満身創痍の二人が最後の一撃に打って出ようとしていた。
睨み合う剣持と尤の間にばちばちと火花が散る。
彼らが次に地を蹴る時にどちらかの生死が決まるだろう。
(そんなことさせてたまるか！どうしよう！？･･･とりあえず、止めるッ！)
全身の力を込めて、対峙した二人が崩れたコンクリの床を蹴る。
八雲はその真ん中へと躍り出た。
眼前に剣持の振るう血に染まった刀が夕日を反射して鈍く輝いていた。
ＢＡＣＫ ＮＥＸＴ
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