| 尤 03 |
ざわざわと後をつけてくる大量の黒い影。
夜の闇の中でもそれとわかるほどに深く暗い何者かが追ってくる。
気配はあるのに辺りに響くのは逃げる少女の足音だけだった。
得体の知れない闇の集まり。
そこからは明確な殺意が感じられた。
なのに逃げる獲物を弄るように、すぐには殺さない。
逃げて見せろと嘲笑う。
焦点の合わない景色の中で、追われる彼女の恐怖だけが痛いほど伝わってきた。
「嫌･･･。やだ･･･！助けて！誰か！お願い･･･っ」
懇願の声が空しく響く。
何故追われるのか、何に追われているのかもわからない。
ただ、恐ろしい。
掴まったら殺されるに違いない事がわかるから。
それもきっと楽には終わらない。
だから恐ろしい。
影が少し間を詰めてきた。
「いやぁ･･･っ！」
少女は走る。
立ち止まったらもっと怖い。
「やだ･･･もう、やだっ！こわい･･･。」
泣きながら、恐怖に怯えながら走り続ける。
「･････････っっ！！！？」
八雲は思い切り飛び起きた。
全力で走った後のように息が上がっていた。
心臓が破裂しそうな勢いで早鐘を打つ。
夢の中の少女の恐怖が自分にも纏わり付いているような何ともいえない嫌な気分だった。
荒い息をゆっくり整えながら、辺りを見回す。
ここは月詠学園学生寮の一室だ。
ベッドと机と小さなクローゼット一つだけの簡素で見慣れた自室。
窓の外はまだ暗い。
枕もとの時計を見ると針は２時半を指していた。
起きる時間には程遠い。真夜中だ。丑三つ時だ。
全くこんな時間に起こされるなんて冗談じゃない、と憤りたくなる。
そして、その場に残る微かな気配を感じて八雲は更に眉間に皺を寄せた。
(伊吹だな、これ･･･)
夕方、無理矢理何か見せられかけたのを思い出す。
起きている八雲に干渉するには五感を奪う他なく、それでも上手くいかなかったから更なる強引な手段に打って出たようだ。
(相変わらず、微妙に迷惑な奴だよなー･･･。)
眠っている時ならもっと容易くいくと思ったか、夢の中に思い切り入り込まれた。
それでどうにか映像も送る事に成功したようだが、磨りガラスの向こう側を覗くようなぼやけたものだった。
(それにしても、さっき追われてたの･･･夕かな？)
聞き覚えのある怯えた声。
八雲が彼女と初めて会った時、確かひどく怯えていた。
あんな風に追い詰められるほど天魔に追われたのだとしたら無理もない。
だが、それが一体何なのかはまだわからなかった。
せいぜい伊吹は夕に何かあると伝えたいらしい、というくらいのものだ。
(もう少し、様子を見るしかないよな･･･。でも、)
この調子で伊吹が八雲の精神に干渉というか･･･チューニングを試すような真似を繰り返されたら迷惑極まりない。
草薙八雲はしょっちゅう遠い目で明後日の方角を見て固まっている、なんて言われかねないし、その度に剣持に殴られるのも遠慮したかった。
(なんか災難だ。ものすごい嫌な予感がしてたけど、それって伊吹の事だったのかな。ホントに付き合い辛い奴だよなー･･･)
八雲は１人ごちてもう１度布団に潜り込んだ。
翌朝。
登下校の当番で迎えに来た幼馴染は、寮の玄関で八雲の顔を見るなり「ひっ！」と短く呟いて後ろに１歩下がってしまった。
「ど、どうしたんだよ、やくもん！！」
「どうって･･･別に？」
そう、別にどうという事はない。
あの後も、夜中散々入り込んできた伊吹のせいで悪夢と寝不足のダブルパンチをくらって、ちょっとばかりげっそりしているだけだろう。
「別に、って顔じゃねぇだろ、それっ！！」
「ちょっと寝付けなくてさ。」
「寝付けない程度で、顔がそんなに腫れてたまるかーっ！」
「え？腫れてる？」
言われて初めて気が付いた。
そういえば朝から喋るたびに妙にあちこち痛むものだとは思っていたのだ。
「相当ひどいぞ、それ。」
「なんか痛いな、とは思ってたんだよな。」
一晩中見せられた伊吹の悪夢コレクションの方が激しすぎて顔が痛いのなんてすっかり失念していた。
「殴ったやつ、誰だー！」
「俺だ。」
若干過保護気味の結崎がそう叫ぶのと、通りすがった剣持が何気ない口調で呟くのとほぼ同時だった。
「なにぃ･･･？」
結崎の声が途端に低くなる。
「今、何て言ったんだよ？昴生？」
「いちいち騒ぐな。･･･五月蝿い。」
馬耳東風。
全く意に介さない様子に結崎の怒りが一気頂点に達する。
「てめぇ･･･っ！」
放っておいたら確実に殴り合いだ。
元々あまり折り合いの良い方ではなかったが、今日は特に間が悪い。
八雲は慌てて二人の間に割って入った。
「ちょ、昴生！もっとちゃんと説明しろよ。亮も！これは昴生のせいじゃないんだから、怒るなっての！」
「･･･本当のことだろう。おまえがぼーっとしているから殴っただけだ。」
さらりと本当に何でもないことのように剣持が言う。
そして、言うだけ言ってしまうともうどうでも良くなったのかそのままさっさと学園に向かって歩いていってしまった。
(こういうの･･･火に油って言うんだよな･･･。)
頭痛がしそうな展開だった。
納まりのつかないのは結崎で八雲の止める手を振りほどいてでも、剣持を追いかけそうな勢いだった。
「やくもん、どういう事だよっ！あいつが殴ったって自分で言ってるじゃねぇか！何でそのままにしとくんだ！」
「いや、だから、ちょっと事情が･･･。」
「事情って何だよ？」
「えっと･･･。」
夕に何かありそうだというのは特に結崎には言いにくい。
伊吹が出たと言ったら大事にされそうだ。
五感が吹っ飛んでたから正気に戻すのに殴られたという真実を告げれば彼の過保護度が増すに違いない。
どうにも言いづらくて八雲はため息をついた。
「言いたくないなら今は無理に聞かないけどよ･･･。」
結崎も同じようにため息をつく。
「何かあるならちゃんと言えよ？それに、その顔･･･ちゃんと保健室行っとけ。」
「ん。そうする。･･･亮･･･？」
「なんだよ？」
「ありがとう･･･。」
「バーカ。」
直球で心配してくれる結崎の気持ちが嬉しかった。
離れていた期間を忘れる程度に彼は今も親友だ。
そして、剣持も。
殴っただの殴られただのには全く興味を示さないし、他人にどう思われても関係ない。
八雲の顔が腫れていようが無関心。
けれど、昨日飛びかけていた意識を戻そうとしていた時の必死な表情や声はきちんと八雲を心配してくれていた。
(うーん。普段から心配してくれる幼馴染と、いざという時にだけ力を貸してくれる同級生。両手に花か！･･･なかなかオイシイかな？)
八雲はいつものように暢気な事を考える。
惜しむらくは両方とも男だということくらいか。
これが両方女の子だったらかなりいいのにな、等とぼんやり思っていた。
「･･････何考えてるんだ、やくもん？」
どうせロクな事じゃないんだろうと言いたげな冷たい視線を感じて慌てる。
いくら幼馴染だからってそんな所まで察しなくてもいいのに。
「え！？何でもないって！本当に。」
「は〜あ、ならいいけどよ。やくもんって時々本気で危ないからなー。」
「どういう意味だよ、それ！」
結崎にだけは言われたくない。
しかも言うに事欠いて危ないとはあんまりだ。
「だって、お前って･･････ああっ！！！！！」
「な、何だよ？」
突然の奇声にちょっと驚く。
「時間！！」
「え？･･･ええっ！！！！」
玄関先に置かれた時計の針が指し示すのは始業時間まであと５分。
気付けば周りには誰もいない。
『遅刻だーーーっ！』
二人は同時に叫びながら走り出した。
そして、結局遅刻した。
校内では結崎と八雲が朝から殴り合いの喧嘩をした挙句に遅刻したという、かなり不名誉な噂がまことしやかに囁かれたという。
ＢＡＣＫ ＮＥＸＴ
| ＩＮＤＥＸ |