| 尤 02 |
先程まであれほど柔らかで暖かに感じたその色が、今は禍々しく見えた。
(何だろう･･･。胸の奥がざわざわする。)
ひどく漠然とした感覚だった。
だが、八雲の嫌な予感というのは往々にして当たるのだ。
コンクリの上を歩く二人の足音がやけに乾いて聞こえる。
長く伸びた影がどこか寒々しい。
元々口数の少ない剣持はあれから一言も発しない。
ただ八雲の後を黙ってついてくるだけだった。
馬鹿な冗談でも言っている方が気が楽なのに。
しばらくすると目的の場所に着いた。
校舎から少し離れたところにある図書館は、およそ高校の図書室というものとはかけ離れたレベルのものだった。
普通に巻物なんかが転がっている天照館と違うのは当たり前として、とにかくその蔵書の量が半端ではない。
高校生が読まないだろうと思われる専門的といえば聞こえのいい、マニアックな本が大量に並んでいる。
喜ぶのはせいぜい館脇くらいのものだろう。
だから、八雲も普段はそう近寄る場所でなかった。
他の生徒達も同様らしく、期末試験前でもないこんな時期は人気もない。
僅かな物音さえも広い館内に響いてなんだか居心地が悪い。
八雲は手近な本棚から目ぼしい本を取り出してはぱらぱらとめくってみた。
意気込んで来たはいいが、実際どう調べたものかとよくわからない。
そんな八雲の心境を知ってか知らずか、剣持は特に苛立った様子もなくその辺の椅子に腰掛けていつものように黙っていた。
静かに目を閉じていても辺りの気配だけは常に探っている。
好きにしろ、用事が終わるまで待っていてやる･･･と、いったところか。
無言の肯定に八雲はそっと顔を綻ばせた。
やっぱりどうにもわかりにくいが、彼も大分丸くなったものだ。
そしてもう１度視線を手元の本に戻した八雲は、
(あ、これ･･･！)
適当にめくっていたページの中にその字を見つける。
『尤：とが−める・もっと−も 。うらみ・うらむ・責任を負う・すぐれた人物・異なる・かけはなれている』
思わず眉間に皺が寄った。
(な、なんだ･･･？)
ひどく矛盾した意味の羅列。
人の名として付けるには色々難しいだろう。
館脇が夕の字を推したのは尤の方の意味を知っていたからという理由だけだったのだろうか。
ただ、そう･･･その字のは確かに夕そのものとも思えた。
人と天魔という異なるもの。
すぐれた人物であり、また剣持の件では恨まれている。
(まさか、いくらなんでも考えすぎーーーーーーあれ？)
己の深読みぶりを八雲が苦笑した時、不意に視界が暗くなった。
館内の電気が消されたとかそういう話ではない。
何も見えない。
目の前に何があるかも分からない。
その手に持っているはずの本の重みは残っているのに、本も自分の手も見えない。
本当の漆黒に包まれる。
「え･･･！？」
驚きのあまり発した小さな呟きはすぐに剣持に届いたようだった。
「どうした、八雲？」
怪訝そうなその声に少し安堵する。
椅子を引いて立ち上がる音。
続いて、こちらに歩いてくる足音。
剣持がそこにいてくれるなら大丈夫、と八雲は思った。
けれどそれも僅かの間だった。
足音は徐々に薄らぎ「八雲、大丈ー･･･」と、かけられたはずの声が途中で途切れた。
(なっ！何も聞こえない･･･？！)
恐ろしいほど静かだ。
視界が遮られ、音もない。
一体自分の身に何が起きたというのだろう。
いつの間にか手にあったはずの本の感触が消えていた。
時が止まったかのような錯覚さえ覚える。
もしかして光と音がない世界に飛ばされたとか、それとも八雲の目と耳が同時にその機能を放棄したのか。
黒い？
いや、暗い。
暗くて静かで何もない。
(一体、何だっていうんだよ、これ！)
途方に暮れた八雲の耳に何かの音が聞こえてきた。
ジジジ･･･と、不快に響くそれはまるで目盛りの合っていないラジオやテレビの砂嵐に似ていた。
そして、少しずつチャンネルが合うかのように音が鮮明になってくる。
人の話し声のだ。
「す･･･ません。こ･･･な事はも･･･二度と･･･。お許･･･を」
「でも･･･、怒っ･･･いる･･･んだ･･･、ボクは。この責めは･････････で償って･･･。だ･･･ど、君が･････････せば･･･許･･･てもい･･･」
女と男だろうか、辛うじて聞き取れるがノイズが多くて何が言いたいのか肝心の部分がわからない。
(でも、この声どこかで聞いたことがあるような･･･)
そもそも何でこんな事になっているのか、と冷静に考えようとしたが、急に右の頬が痛んだ。
じんじんと痺れるような痛みだ。熱い。
(今度は何だよ、おい！)
意識が痛みに集中したせいで聞こえていた声が急激に遠ざかっていく。
代わりに次は左の頬に衝撃が走った。
頭まで揺さぶられるようにぐらぐらする。
口の中で鉄の味がした。
と、同時に視界が戻った。音も。
「痛ってーーー！」
目の前には剣持の顔。
そして、振り上げられた拳。
八雲は何が起きたかを瞬時に理解した。
「昴生、ひっでー！殴っただろ？」
とりあえず抗議する。
剣持は振り上げた拳を下ろし、それでも片方の手で八雲の胸倉を掴んだまま小さくため息をついた。
「八雲･･･おまえ、自分がどういう状況だったか覚えてないだろう･･･？」
「え？どういうって･･･？」
とりあえず、殴られたのはわかる。しかも両頬。無抵抗だったのに。
「昴生が無抵抗の俺を殴ったから、これを脅しのネタに使えないかな･･･？とか」
「八雲･･･。」
低い声が怒りの濃度を表していた。
(まずっ･･･！ふざけすぎたか)
八雲の胸倉を掴んだ手に力がこもった。
「おまえは！そこでつっ立ったまま！明後日の方向を見て固まって、揺すろうが呼びかけようが反応なしだったんだ！」
「あー･･･、えっと、ごめん！」
般若のような形相に慌てて謝る。
(怖えぇぇぇ･･･！)
ぺこぺこと頭を下げまくると、剣持は少し溜飲を下げたようだった。
「･･･ふん。」
いつもと同じく不機嫌そうに小さく呟く。
そうしてやっと八雲から手を離すと、足元に落ちていた本を拾って差し出してきた。
「あ、ありがと･･･。」
大丈夫か？とか何があったのか？とか普通なら当然聞いてきそうな質問さえしてこない。
きっとそういった事には興味がないのだろう。
「まだ、調べるのか？」
「え？ああ、いいや。もうわかった気がする。」
少なくとも今得られる情報はここまでだろう。
「じゃあ、帰るぞ。」
用が済んだとなると剣持の行動は早い。
くるっと踵をかえして出口へと足早に歩いていく。
「わ。ちょっと待てってば！」
八雲は手元の本を慌てて棚に戻すと、急いで後を追った。
走りながらそっと唇を噛締める。
(さっきのアレ･･･伊吹か！)
どこか覚えのある感覚だった。
以前、散々見せられた白昼夢と似ていた。
もっとも今回は外から無理矢理精神に干渉したせいか、八雲の視力聴力を奪った上に壊れたラジオのような半端な音声しか送れなかったようだ。
前は他人にまで鮮明な像を見せることが出来たというのに。
あの横柄な神が、今でも八雲の事を気にかけてくれているらしいのは少し頼もしくもあったが、わざわざ伊吹が出てくるからには何かあると見て間違いないだろう。
(伊吹･･･気持ちはありがたいけど、あれじゃ何が言いたいかわかんねーよ！)
余計にもやもやとする思いを抱えて毒づきながら、八雲は家路を急いだ。
夕暮れはいつの間にか夜の帳を下ろして静寂に変わっていた。
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