治基×紗依　ＳＳ　　２ その後の生活はそれは酷いものだった。 人気のない森の中を数日彷徨い、 やっと集落を見つけたがそこに居たのは自分とは違う文化を持つ人々だった。 とりあえず、言葉が通じない。 更に治基の格好は彼らにとって奇異に映ったらしい。 泥と雨に薄汚れた着物、そもそも着物という文化の無い世界だ。 よそ者として怪しまれ、追い立てられて村を逃げ出した。 その背に紗依を乗せたまま森へと逃げ帰る。 治基は無我夢中で走って、ようやく追っ手を撒いたことに気が付いた。 すっかり上がった息を抑え、手ごろな岩場に紗依を寄りかからせた。 もうこれで何日目だろうか。 ここがどこだかわからない。 言葉は通じず、何も出来ない。 世界を変えるなどと考えていたのに、今の自分は薄汚れて飢えたただの男だ。 なんてザマだろう。 じわりじわり、と絶望が疲れた心の隙間に染み込んできていた。 疲れているのは心だけではない。体もだ。 ここ暫くろくに食べていない。 食べられそうな物を選んでは口にしているが、 山慣れしていない治基が見つけられる食料など微々たるものだった。 夜は夜で獣に襲われるのではといつも気が抜けず、ろくに寝ていない。 こんなことでは、自分は何も成す前に朽ちていくだけだろう。 世界を変えるだなんて、本当になんて愚かな夢を見たものか。 もう、いっそ終わりにしてしまおう･･･。 「ぁ･･･あ･･･。」 傍らで小さな呟きが聞こえた。 「紗依、どうした？」 治基は気付いていなかった。 いつの間にか、彼女のことを名前で呼ぶようになっていたことに。 それから、彼女の名を呼ぶ自分の声と表情がこれ以上ないくらい穏やかなことにも。 紗依の体はやはりほとんど自由に動かなかった。 言葉を失い、そしておそらくは記憶も失っているのだろう。 あれほど敵として相対していたはずの治基にすっかり気を許している風だった。 「のう、紗依･･･。もう、終わりにしようか･･･？」 何も先への展望が感じられない。 二人共もっと弱ってしまうだろう。 生きながら山の獣に食われるくらいなら今楽に死ぬほうが幾許かましに違いない。 白かった紗依の服も、治基の着物も今や泥と草木の汚れで元の色さえわからない状態だ。 「紗依･･･。」 そっと彼女の華奢な喉元に手を当てる。 このまま思い切り力を入れて締め上げれば、それで終わりだ。 紗依はそんな治基の動きをきょとんとした顔で見上げていた。 少し覚悟が揺らぎそうになる。 しかし、治基は息を深く息を吸いこんだ。 (紗依、すぐ私も後を追おう。･･･だから、少しだけ先に逝ってくれ。) そして、両の手に力を込めようとしたその時、 まるで治基の思っていることがわかったかのように紗依が微笑んだ。 「！？」 それでいいと言われた気がした。 治基の望みなら死出の旅路も共に行く、と。 我知らず涙が零れる。 震える指先にはもう力が入らなかった。 「紗依･･･紗依･･･紗依っ！」 治基は無我夢中で紗依を抱きしめた。 腕の中の温もりが愛おしい。 失いたくない。 どうして殺せるなんて思ったんだろうか？ 無理だ。 彼女の顔が苦悶に歪む様を見たくはない。 その鼓動が止まり、二度と微笑みかけてくれることがなくなるなんて絶対に嫌だ。 彼女を失うことは、きっと死よりも深い絶望だ。 ･･･ならば道は1つ。 紗依と二人、何としても生き延びる！ その為に必要ならどんな手段を講じても構わない！ どうせ血に塗れたこの手だ。 最早、何を気にすることもない。 治基の中にふつふつと湧き上がってくる何かがあった。 それは生への執着であり、生きるための原動力であった。 守るために生きる。 守るために戦う。 今や治基の前へ進む力の全ての源は、紗依というたった一人の少女にあった。
	･そして、生きることを望んだ治基の耳に慣れぬ音が聞こえてきた。 「･･････！？」 草を踏む足音。 獣のものではない。 人間の足音だ。 数人はいるだろう。 時折風に混じって聞こえてくる彼らの会話は相変わらず何を言っているのか全くわからない。 どうする？逃げるか？ 紗依を抱えて走る体力はまだ、ある。 だが、向こうの足音がこれだけ良く聞こえるのだ。 彼女を抱えて逃げればすぐに向こうにも見つかるだろう。 今は息をひそめてやりすごそうと治基は思った。 しかし、運の悪いことはあるもので、徐々に足音がこちらに近付いてきていた。 身を低くしているから草に紛れて向こうからこちらは見えないだろうが、 こちらから相手は良く見える。 体躯のいい男が3人。 やって勝てるだろうか？ いや、勝たねばなるまい。 もう生きると決めたのだから。 治基は腰に差した刀に手を伸ばした。 先手必勝、相手が現れたらすぐに斬りかかろう。 気配を殺し神経を尖らせながら、治基は相手の動きを探った。 背丈の高い草を掻き分けながら男がまっすぐこちらへ来る。 あと僅か。 10歩。 7歩。 5歩。 3歩。 今だ！ 刀を抜いて相手に斬りかか･･･ 「おお、噂は本当だったか！確かに着物だのう。」 「！？」 草むらから現れた男を斬りつける瞬間、治基は慌てて手を止めた。 言葉が、わかる？ 「随分物騒な物をふりまわしておるのう。」 呆然とする治基と対照的に男はどこかのんびりとした口調で話しかけてきた。 銀色の髪。 がっちりとしていて体格は良く、連れの男たちと同じような格好をしている。 どう見ても現地の人間のようだが、言葉は通じるようだ。 「そなた･･･何者だ･･･？」 「何者、と言われてものう。ここではお主の方が不審者だぞ。 村の連中が、森に変質者が住み着いているというから見に来ただけだ。」 「変質者、だと･･･？」 ピクリ、と治基のこめかみが動いた。 言うに事欠いて変質者とは失礼極まりない。 露骨に不機嫌な治基を見て男が苦笑した。 「仕方あるまい。着物姿の者などここの連中が見たことあるわけないのだし。」 「あ、ああ･･･そうかもしれぬな･･･。」 「で、お主こそ何者だ？人に尋ねる前に自分から名乗る気はないのか？ ちなみにワシの名前はゲイツというがな。」 男はそう言って屈託なく笑った。 言葉が通じるということがこれほど嬉しいとは思わなかった。 それだけで気を許しそうになる。 まだ油断は出来ないが、聞けることは聞いておくべきだろう。 治基はこの場所について何も知らなすぎる。 「すまなかった。私は大野治基という。少し教えて欲しいのだが、 ここはどこだ？何故言葉が通じない？」 「どこ、ってそれもわからぬのか？」 「た、旅の途中の事故でここに辿り着いたのでな。」 「まあいい。ここはベトナムだ。日本語が通じないのは当たり前だろうが。」 呆れたようにゲイツが言った。 その言葉の端々から治基は必死に現状を把握しようとしていた。 ベトナムって何だ？ おそらく地名には違いない。 日本ではないらしい。 海の向こうの国々のどこか、だろう。 時だけを越えるはずが国まで越えてしまったか。 だが、それでも言葉の通じる人間に出会えた事は幸運だ。 「で、後ろにいる女子は？」 「え？ああ、あれは紗依と言う･･･。」 そこで治基は少し考えた。 彼女と自分の関係は何だろうか？ 暗殺しようとしていた姫と謀反の臣下？ いや、それは前の話だ。 適当に言い逃れよう。 この先も困らない程度の嘘で。 それならば、兄と妹･･･？ いや、顔が似ていないな。 それに今後悪い虫がついたときに払いにくい。 じゃあ友人？恋人？ 「どうした？お主の家族か何かか？」 重ねて問われて余計に焦る。 「いや、その･･･彼女は私の･･･私の許婚だ！」 「ほぅ？」 思わず言い切った治基にいぶかしげな視線が向けられる。 「・・・何か不満か？」 矢張り、即席の嘘ではばれてしまうだろうか？ しかし、そういうわけではなかったらしくゲイツは顎に手をあてて考え込んでいた。 「いや、年が随分離れておるようだな、と。」 「あ、愛に年の差など関係あるか！」 もうヤケだった。 一旦ついた嘘は最後までつき通すしかない。 「フィアンセかー、良く親が許したのう〜。」 「五月蠅い！･･･あ、いや、その、反対されてな。二人でどこへなりと逃げようとしていたところだ。」 「なるほどな。それでこんなところに迷い込んで途方に暮れていたわけか。」 ゲイツは一人で何か納得したらしく、うんうんと頷いてからニカっと笑った。 「なら、一緒に来い。同郷のよしみだ。村で服と食べ物くらい用意するぞ」 降って沸いたようなありがたい申し出だった。 「か･･･かたじけない･･･っ！」 自然と感謝の言葉が口をついて出る。 「しっかし、随分古臭い話し方をするのう。」 「ゲイツ殿だってそうだろう？」 「ワシのは日本から渡って来た父との会話で覚えたんだから仕方なかろう。 昨今の日本ではもっとハイカラな喋り方をするらしいがのう。」 「大きなお世話だっ！･･･さあ、行こう、紗依。」 岩場に座らせていた彼女をそっと抱き上げる。 「･･･のう、何かお主の恋人、様子がおかしくないか･･･？」 それはそうだろう。 力なく投げ出された手足、声もろくに発しないその姿を不審に思わぬはずがない。 「事故のせいで、な。」 言ってから治基は苦々しい気分になった。 事故、ではない。 こんな結果を予想していな かったとはいえ、全て自分の招いたことだ。 そんな治基の様子をどう思ったのか、ゲイツが呟いた。 「そうか、それはさぞや辛かったろうな･･･。」 「え？」 「右も左もわからぬ場所で、大変だったろう？」 「あ、いや･･･。」 治基はどう答えていいかわからず、戸惑った。 ゲイツとは初対面だ。 なにのこれだけ優しいなんて、怪しむべきだ。 そう思う反面、このどん底にいた二人に手を差し伸べてくれる言葉が嬉しくて仕方ない。 なんて温かいんだろう・・・人の優しさというものは。 治基は久しく忘れて・・・いや、もしかしたら今まで知らなかった感覚なのかもしれない。 だから、その想いを伝えるすべを知らなかった。 口から出ない言葉の代わりに、頬を熱いものが伝っていく。 いい年して人前で泣くなんてみっともない、とその時は思えなかった。 さっきまで絶望のどん底にいたのが嘘のようだ。 きっと生きていけるだろう、この先も。 「そう泣くな。きっと恋人も治るから。それまで、ワシがなんとかしてやるから。 ゲイツの言葉がただただ温かく心に沁みた。 ＢＡＣＫ　　　ＮＥＸＴ