治基×紗依　ＳＳ　　1 世の中は理不尽だ。 才などなくても生まれだけで、あの娘は姫という立場にあり続ける。 そして、自分はどう足掻こうともそんな娘の臣下でしかないのだ。 昔、ささやかな望みを持ったことがあった。 藩も出世もどうでもよくて、ただ共にと望んだたった一人。 それすら叶わなかった。 神仏に縋った所で何も変わらない。 祈りなど無駄だ。 運命なんてものがあるのなら、切り開くためにそれは存在する。 この手で全てを変えてみせよう。 治基はそう思った。 だから、その一歩として姫の暗殺計画を練ったのだ。 結果は失敗で、治基は望月藩での立場と弟を失った。 代わりに手に入れたのは一人の娘。 時を越え、定めを変える力を持つ娘。 治基は今度こそ、全てを変えてみせると誓って光の中にその身を投じた。
	･･･冷たい。 頬に何かが当たる。 冷たい。 それが最初に感じた事だった。 瞼が異様に重かった。 体もだるい。 もう少し休ませて欲しい。 だが、先ほどから感じる冷たさが有無を言わさず治基の意識を覚醒させた。 やっとの事で開いた目に飛び込んできたのは一面どんよりと濁った灰色の空だった。 仰向けに倒れた治基の上に、絶え間ない雨が降り注いでいた。 (これでは冷たいわけだ。) しばらく呆然と空を見つめていた治基だったが、じきにゆっくりと身を起した。 着物は既に水を多量に含んで重い上に、体に纏わりついて気持ちが悪かった。 地面についていた手は泥で汚れている。 (ここは･･･どこだ？) 時を越える光の中に飛び込んだのだ。 どこへ辿りついたとて不思議は無い。 治基はゆっくりと辺りを見回した。 辺りに人気は無い。 森の一角だろうか。 ただ、うっそうと茂った木々の中、治基の倒れていた周辺だけ ぽっかりと空いたようにむき出しの地面が顔を覗かせていた。 もしかしたら二人で時を越えた衝撃に木々が巻き込まれたのかもしれない。 (二人･･･？) まだ少し霞がかった意識の向こうで疑問が首をもたげる。 そうだ。 自分は一人で光の中に飛び込んだわけではなかった。 それが黄泉への道行きでも、時を越える光でも構わぬと娘を道連れにしたはずだ。 慌ててもう一度辺りを見回す。 すると、そう離れていない場所に見知らぬ少女が倒れていた。 肩ほどまでの短い髪。 白い面妖な着物を纏っている。 これがあの娘の本当の姿、か。 姫の体に入っていたミライから来たという娘だ。 名は･･･確か紗依と言ったか･･･。 治基はゆっくりと彼女に近付き、抱き起こした。 「起きろ！娘･･･。」 血の気を失った顔に濡れた髪が張り付いている。 「いつまで寝ているつもりだ！」 やや苛立って乱暴にゆすると少女が目を開けた。 焦点の合わないぼんやりとした表情で治基を仰ぎ見る。 「あ･･･。」 口から漏れるのは吐息のような呟きだけだった。 「ふん、惚けている場合ではなかろう。立て！」 強引に立たせようとしたが、彼女の手も足も力なくだらりと地に投げ出されるだけだった。 「おい、ふざけるな･･･！」 苛立ってもう一度引っ張る。 だが、結果は同じだった。 「･･･あ･･･う･･･。」 少女の口からは意味不明の呟きが零れるだけ。 その身を満足に自分で起すことさえ出来ないらしい。 彼女はやっと焦点のあった瞳で不安げに治基を見上げた。 「ちっ、時空を越えた衝撃に耐え切れなかったか･･･。」 人並み以上に体力のあった治基でさえ、まだ頭がぐらぐらしているところだ。 ましてや彼女は、生身ですらなかった。 時を越えた折に姫の体から抜け出し、 自分の体をここまで引き寄せたとなれば当然とも言える結果だ。 「短い付き合いだったな。」 治基は少女の手を離した。 彼女はそのまま声も無く濡れた地面に倒れこんだ。 使えない娘だ。 捨て置けばいずれ山の動物にでも喰われるだろうがどうでもいいことだ。 治基は彼女を置いてその場を立ち去ろうとした。 雨がいっそう酷くなってきた。 一歩進むごとにぬかるんだ地面に足をとられる。 冷たい雨だ。 動物に喰われる前に、体力を奪われてあの娘は死ぬだろう。 治基はほんの少しだけ少女のことが気になった。 やめておけばいいものを、思わず振り返ってしまう。 彼女は激しくなった雨に打たれながら、先ほどの場所にただ倒れていた。 見開いた目が悲しげに淀んだ空を見つめている。 酷く痛々しい光景に治基の胸が僅かに痛んだ。 久しく忘れていた痛みに背を押され、もう一度少女の元へと戻る。 雨宿り出来る木の下にでも置いていこう。 ほんの情けだ。それくらいならしてやってもいいだろう。 「ほら！起きろ、娘。」 乱暴に腕を掴んで起すと、彼女の真っ直ぐな瞳が治基を捉えた。 そして、微笑んだ。 まるで花が開く瞬間のような柔らかい笑顔だった。 それは嬉しそうに。 無邪気に。 ここはどこなのか、果たしていつなのかもわからぬ場所なのに。 治基は彼女を捨てようとしていたのに。 胸の奥がざわざわする。 自分の鼓動が酷く大きな音で聞こえる気がした。 息が詰まる。 何だ、これは？ 治基は戸惑っていた。 自分の事なのに自分でわからない。 何故、少女の顔から目が離せないのか。 何故、少女の手を離せないのか。 わかるのはただ、きっともう自分に彼女を捨てることは出来なくなったという事だけだった。 ＢＡＣＫ　　　ＮＥＸＴ