| 君のとなり |
窓から入り込んでくる夜風が思いの外ひやりとしていて、思わず俺は顔をあげた。
ノートに走らせていたペンが止まる。
もう夏も終わりか。
気付けば時計は既に日付を超えて２時を指している。
そろそろ寝た方がいいかな。
俺のベッドを占領して気持ち良さそうに寝ている友人を眺めて小さくため息をついた。
あいつを起こさないように静かに立ち上がって窓を閉めようとした時、どこからかふわりと甘い香りがした。
金木犀だ。
トイレの芳香剤か？って言ったら直人に｢花の名前や花言葉、いいタイミングで言えるのもモテるコツだぜ？トイレとか言ってちゃなあ…。｣って苦笑されたっけ。
本当に、最近何かと言うと直人の事が頭の中をちらつく。
別にそんな気にする事でもないはずなんだけどなあ。
直人と別れる日が来るんだと自覚してからどうにも気分が落ち着かない。
普段の生活の中で不意に頭の中を掠めていって、その度に「深く考えない」の一言で思考の彼方へ打ち返してるんだけど、おかげで効率が悪い事この上ない。
小学校、中学校…高校だって別れは普通にあった。
でも、それを惜しんだのはせいぜい卒業式の日の事であってこんな前からうだうだと…。
「本当に何なんだよ、もう。」
俺はもう一度、今度は盛大なため息をついて机に向かった。
翌朝。
寝不足で挑んだ講義はなかなかきつかった。
爽やかな朝日が遠慮なく目を焼いてくる。
そのせいか何なのか頭もくらくらした。
でも、この講義は後で教授の本読んどけばどうにかなるから頭働かなくてもどうにか、多分、なんて心の中で呟いて自分を誤魔化した。
広々とした講義室は教壇を中心に１０段くらいになっていてみんな適当に空いている席に腰掛けていた。
大して人気がない割に部屋ばかり広いから迂闊な行動をすると目立って仕方ない。
俺達はなるべく後ろの方の席を取ったけど、下から良く見えそうだし結局うたた寝したらバレるよなあ。
隣にいる直人は…とちらっと見たら…もう寝てるし！
船なんかこいじゃったら明らかに不審な動きでバレバレだけど、講義中の居眠りも慣れたもんで直人はぴたっと止まって動かない。
ある意味達人の域に達している。
全く、高校の頃から変わらず本当に暇さえあれば寝てるよなコイツ。
いや、授業中をヒマと言っていいのかどうかは謎だけど。
しかも、成績良いしさ。
特に大学に関してコイツは奨学金で来てる分、俺みたいに出席日数も成績もギリギリです、なんてわけにはいかないんだけど…十分、クリア出来てるみたいだ。
世の中理不尽すぎる。
やれやれとため息をつきながらポーズだけでも、とノートと本を開いた。
細かな文字の列がゆらゆらとぶれて見える。
眠いというよりはなんだかしんどい。
最近バイトも詰め過ぎでちょっと無理してる自覚はあるんだけど。
時間が空くと余計なこと考えそうになるから何かしてた方がマシかな、なんて。
でも…こうして振り返ればいつでもコイツの暢気な寝顔が見られるのも、あと少しだと思うとって…また！
そんな風にまとまらない思考の中をぐらぐらしているうちにどうにか90分やり過ごす事に成功した。
「ふぁ〜。良く寝た。どうせ大したこと言ってなかっただろうけど、今日の講義どうだった？」
講義１コマ分綺麗に固まっていた直人が思いっきり伸びをする。
「お前はまた…朝から寝すぎ。いつも通りだったよ。本の中身朗読してるだけ。」
「だろ？だからしんちゃんも少しは寝ればいいのに。」
「俺はお前と違って心臓に毛が生えてたりしないんだよ。」
そんなもん生えてないよという直人の抗議を無視して立ち上がる。
瞬間、周囲の景色がぐにゃっと歪んだ。
「……っ」
「どうかした？」
一度目ぎゅっとを閉じてすぐ開ける。
治まったみたいだ。
「何でもないよ。」
俺が具合悪い所なんか見せたら、直人が心配する。
大丈夫、大丈夫と心の中で呟いた。
「次の講義終わったら学食行く？」
「うん。そうだな。」
何気ない風を装って直人の声に応えながら木製の固定机の脇をすり抜ける。
階段をゆっくり降りた時、またぐらっと辺りが揺れた。
足が空を蹴る。
上手く階段を捉えられていないのがわかった。
まずい。
これは落ちる…！
衝撃に備えて目を瞑ったけれど、一向にそれはやってこなかった。
代わりに背後からの声と何かの落ちるバサバサっという音。
「おい！大丈夫かよ、しんちゃん。」
どうやら直人が支えてくれたみたいだ。
「あ…悪い。ちょっとぼーっとしてて踏み外したみたい。」
「ぼーっとしてて、じゃないだろ？ここまできて誤魔化すなよ。顔、真っ青だぜ？」
「そうかな？大丈夫だって。」
往生際悪く言い逃れようとしたら思いっきり睨まれた。
直人は俺がちゃんと立てているのを確認してから一旦手を離し、床に落ちた本とノートを拾って小脇に挟んだ。
そして空いた方の手でがっちりと俺の肩を抱く。
「お、おい、直人！」
「寮、戻るぞ。」
有無を言わさない態度にこっちがたじろぐ。
「でも次の講義…。」
「しんちゃん、今日は午前だけって言ってたじゃん。次の1コマくらい休んだって単位落とさないだろ？」
「そりゃそうだけど…。」
「じゃあいつまでもぐだぐだ言わない！はい、戻るの！」
引きずられるように連れられて教室を出た。
通りすがりに「うわ。一ノ瀬、大丈夫かよ？」なんて声をかけられた辺り、自分で思う以上に酷い顔してたのかもしれない。
そりゃ、直人も離さないわけだ。
正門へと続く並木道が今日はいつも以上に長く感じられる。
やっぱり体が重い。
「医務室、行くか？」
よっぽど心配してるんだろうか。
少し張りつめた直人の声が耳元で聞こえる。
こいつの低音も俺、結構好きだな、なんてどうでもいい事が働かない思考の中でくるくるする。
「いや、そこまでじゃないって。」
答えながらそれすらだるくて、思わず支えてくれる左側に体重を預けると微かに笑う気配を感じた。
「説得力ないぜ、全く。しんちゃん、こんな風になる前にもう少し俺を頼れよ。」
直人を頼る…ねぇ？
そんなこと考えた事もなかったな。
そのままどうにか寮に辿り着くと問答無用でベッドに放り込まれた。
夕方からバイトだと伝えると心の底から渋い顔をされたけど、それでも５時には起こしてくれるという事で話がついた。
今、結構繁忙期だし、突然当日休みますなんて言えるわけがない。
本当は夕方と言わず、２，３時間寝たら起きて色々やろうと思ってたんだけど、何を思ったのか直人がベッドの前にイスを置いてどかっと腰掛けた。
さっきの講義で使ってた本を開いてすっかり長期戦の構えだ。
「えーと…直人？お前もやること色々あるだろ？何もここにいなくても…。」
「却下！どうせ、大して休みもせずに起きる気だろ？」
「うっ…。」
図星です。
「休む時はしっかり休む！ちゃんと夕方には起こしてやるから、ほら。」
言いながらタオルケットをしっかり首元までかけてくれた。
これは抵抗するだけ無駄っぽいな。
仕方なくそのまま目を閉じる。
まだ昼間。
人気のない寮内は静まり返っている。
ページがめくられる度に聞こえる紙の音が、そこにいる直人の存在を知らせてくるようで何だか安心する。
極度に疲れていた体はそのまま沈み込むように眠りの中に落ちて行った。
部屋…暗い…。
「う…ん……？」
目が覚めて一番初めに思ったのはそれだった。
暗いな、って。
ぼんやりとそう考えてから跳ね起きる。
「今、何時！？」
窓の外が真っ暗だ。
まだ夏が終わったばかりのこの時期、夕方5時程度でこんな暗いわけがない。
「嘘だろ……。」
慌てて枕元の携帯画面を見れば時間は既に11時を過ぎている。
メール着信のアイコンがぴかぴか光っていてその数９
うわぁ、見たくない！
アラームつけてたはずなのに、疲れすぎてて俺、止めたのか？
そもそも、見張り状態でくっついてた直人はどこに行ったんだよ？
「とりあえず、電話して謝って…。」
頭を抱えたくなっていると、不意にドアが開いた。
廊下の灯りを背にドアを開けた人物の長い影が室内に入ってくる。
「あ、しんちゃん。目、覚めたんだ？調子は？」
「直人、お前…何で起こしてくれなかったんだよ！」
「だって、よく寝てたし。」
しれっと言いながら直人はドア際のスイッチに手を伸ばす。
急に部屋が明るくなって、その眩しさに俺は一瞬目を閉じた。
「バイト、無断欠勤しちゃったじゃないか…。」
がっくりと肩を落とす。
そもそも体調管理に失敗した俺が悪いんであってこいつを責めても仕方ないんだけどさあ。
「ああ、それなら大丈夫。俺、代わりに行ってきたし。」
「…え？」
顔を上げると、得意満面な表情の直人がそこにいた。
「一ノ瀬慎也君は病欠なんで、俺が代打に入りますってやってきたぜ。」
「本当かよ…。」
いくら繁忙期の学生バイトだからって初対面の人間をほいほい補充人員にするわけがない。
ましてやあの店長結構厳しいのに。
直人の人心掌握術恐るべし！
今まで女の子相手にしか発揮できない特殊能力だとばかり思ってたけど、対象範囲広そうだなあ。
こいつの将来は営業マンか結婚詐欺師じゃないだろうかと心配しそうになる。
「初めての場所だったからちょっと手間取ったけど、お前の抜けた穴、とりあえず程度には埋めてきたぜ。」
最早ため息しか出ない。
「凄いな…。あ、でも、ありがとう。助かったよ。」
「どうってことないって。で、調子は？」
「ああ、大分いい。もう眩暈もしないし体も軽いよ。」
ほら、この通りと言わんばかりに両手を軽く回して見せる。
「だから、根詰め過ぎなんだって、お前は。前からそうだけどさ。」
「そうだっけ…？」
「そうだっけ、じゃないぜ。」
「あ、直人。そこの鞄の中にドリンク入ってるから取ってもらっていい？」
「ん？これ？」
直人が足元のバッグの中を探って1本の缶を取り出し……固まった。
「何だよ、これ？」
「え？何って…？」
別に怒られるようなものじゃない。
所謂エナジードリンクとかそういう類の物だ。
そのまま傍らのゴミ箱に視線を移した直人が呆れかえった顔でこちらを振り返った。
「しんちゃん…？ゴミ箱の中も空き缶だらけなんだけど？」
「ちゃんと、捨てるってば。」
「そうじゃなくて！これって体力の前借りしてるようなもんだろ！？こんなのばっかり飲んでたのかよ……。」
「結構効くんだけど…。」
「没収！」
手に持っていた缶を直人は強引に自分のジーンズのポケットに押し込んだ。
「えぇーっ！」
結構高いのに！
「えー、じゃない！…あのなあ、さっきも言ったけど少しは俺を頼れよ。こんなのよりは役に立つぜ？」
「……。」
別に驚く所でもない。
でも、そう言って俺を見る直人の目がやけに真っ直ぐで、力強くて一瞬言葉を失った。
ああ、そうだ。
そうだよな。
直人って元々しっかりしててちゃっかりもしてて要領も良くて……高校の頃から結構頼りになるやつだった。
まあ、あの頃は頼れよっていうよりは適当に頑張れよ〜？って言いながら去っていくタイプだったけど。
何だか今までのもやもやが晴れていく気がした。
直人と離れるのが寂しいなんて俺何考えてるんだ？って悩んでたけど、そんなの当たり前だよな。
この何年かずっと側にいた。
家族より近い所で、お互いの色んな面を見て、それでも一緒にいるのが心地よかった。
そんな相手、直人以外にいない。
だから、深く考えるまでもない事だったんだ。
別れを惜しむのなんて当たり前だ。
卒業式が近付くだけで寂しいと言いあっていた連中の気持ちが今ならわかる。
「でも、本当にすっきりした顔してるな。良かった。」
直人が安心したように笑う。
「うん。今回は本当にありがとう。」
おかげで悩みも解決したしな。
ってことは、バイトサボったお叱りじゃないだろうしこの沢山来てるメールは何なんだ？
気になって画面を開いた。
半数はバイト先の男連中からの短文メール。
気をつけろよ、とか早く治せよ、とか。
それでもう半分が女の子達からの薄情なメールだった。
今日代わりに来た人超かっこいいんだけど！紹介して！とか今度合コンしよう！とか。
一回行っただけでこれとか直人、やっぱり恐るべし。
誰が、紹介するかよ。
どう考えても無用なトラブルが増えるだけに決まってる。
直人が俺のバイト先の子と付き合った挙句に振って修羅場、とか合コンで俺が他の女の子と仲良くして直人がむくれる、とか。
…ん？今でもむくれるのかな？
あと女の子から来ていたメールの中に1通「うそつき！サイテー！」と書かれたものがあって首をかしげた。
確かこの子結構可愛かったはずだし…割と仲良くしてきたんだけど、直人、何かやらかしたのか？
「なぁ、お前、バイト先で何してきたんだ？クレーム来てるんだけど。」
画面を見せると直人は「さぁね。」と言ってニッコリ笑った。
笑顔がやたら胡散臭い。
「まさか、1回行っただけでもう手を出してきたのか？！」
「そんなことあるわけないだろ。俺はいつでもしんちゃん一筋だよ。」
「あー…はいはい。わかった、わかった。」
お、久々に聞いたな。
直人のこの手の冗談。
なんだかそれすら心地いい。
残り時間短いかもしれないけど、それならそれで大事にしよう。
こうやって過ごせる日々は今だけなんだから。
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