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｢お疲れさまー！｣
｢うん、お疲れ。｣
俺はいつも通りの挨拶を交わして、バイト先を出た。
外に一歩出ると驚くくらい寒い。
吹き付ける風が切れそうなくらい冷たくてそっとコートの襟元を閉める。
と、先程帰ったはずの彼女が慌てて戻ってきた。
｢どうしたの？｣
｢忘れ物。｣
そう言ってにっこり笑った彼女は鞄から小さな包みを取り出した。
｢はい、これ。｣
｢？｣
何だろう？
なんかゴテゴテりぼんとか付いてるけど。
思わずきょとんとしてしまった。
そのせいだろう。苦笑いされた。
｢一ノ瀬君って鈍いなあ。今日、バレンタインだよ。｣
｢えっ…あ、そうか。ありがとう。｣
差し出された袋を受け取りながら俺も苦笑した。
この照れも何もない態度は完璧な義理チョコだよな。
それでも貰えるだけありがたい…ことにしておこう。
2月中旬、冬真っ只中。
バレンタインデーを人恋しくなるこんな季節に設定する辺り、絶対お菓子会社の陰謀だ！と
文句を言ってみても…気が付けば街は確かに普段よりカップルが多くてちょっと寂しい。
その後、ちょうど入れ替わりに来た子からもチョコを貰って、本日の収穫2個。
まあ、こんなもんだよな、と小さくついたため息は一瞬白く見えたけど、
すぐに冷え切った夜の空気に溶けていった。
寮に帰り、部屋の鍵を開けた所で、俺の帰りに気付いたのか向かいの扉が開いた。
｢よ。お帰り。｣
ひょいと直人が顔を出す。
それと同時に流れてきた暖かな空気がふわりと俺の頬を撫でた。
｢ただいま。｣
答えながら俺は思わず自分の部屋のドアを横目で見る。
｢なあ、直人。俺、今晩そっち行っていい？｣
｢え、いいけど。どうして？｣
少し意外そうに直人が聞き返してきた。
毎晩一緒に寝ることにしてからもう結構経つけど、基本的に直人が俺の部屋に来ることの方が多い。
｢いや、俺の部屋寒そうでさ。｣
僅かに開いたドアの隙間からひやりとした風が流れ出ていた。
暖まるまでに時間かかるし、それまで部屋にいるのもイヤだ。
｢なんだ、そんな理由かよ。まあいいぜ。｣
直人は少し呆れたようだったけど、すぐにいつものように笑って俺を招き入れる。
｢うん。｣
少し暖まったら後で部屋に着替えとか取りに戻ればいいや。
直人の部屋は相変わらず綺麗に整頓されているけれど、狭い寮だ。
どう片付けた所で大して物は置けない。
もちろん椅子だって机の所に備え付けられていた1つだけ。
だから俺はベッドの隅に腰掛けた。
外が寒かった分、部屋の暖かさが余計に感じられる。
｢コート、掛ける?｣
直人が差し出してくれたハンガーは遠慮しておいた。
｢いい、いい。すぐ戻って部屋に置いて来るよ。｣
ここでコートまで掛けちゃったら部屋戻るのイヤになりそうだもんな。
｢そっか。…あ。｣
｢あ？｣
直人は俺の前でハンガーを持ったまま、小さく呟いて固まった。
何だろう？
視線の先を追いかけると、俺の足元で止まっていた。
そこには鞄と一緒にさっき貰った小さな袋が置いてある。
…なんだか固まった理由がわかった気がするぞ。
｢チョコ、貰ったんだ…？｣
｢う、うん。｣
少し直人の声のトーンが落ちた気がして俺はぎくりとした。
まさか義理チョコくらいでもダメって事はないよな？
びくつきながら見上げた直人の横顔だけど、別に怒っているわけじゃないみたいだ。
ついでに言うと妬いてるわけでもない、と思う。
その代わり、少しつまらなそうにしている。
なんだよ。俺がチョコ貰ったくらいでがっかりしなくたっていいじゃないか。
義理くらい貰えるよ、俺だって。
色々言ってやりたいことはあったけど、やぶ蛇になりそうだからやめて逆に探りを入れてみる。
｢そう言うお前は？また結構貰ったんじゃないのか？｣
｢…普通だよ。｣
そう言って直人が微かに笑ったので、俺は改めて部屋の中を見回した。
こいつの事だから俺みたいに1個2個じゃなくて、一杯貰ってるに違いない。
けれど、机の上や鞄の周りを見てもチョコレートらしき物は見当たらない。
こういう場合、可能性として一番高いのは…アレか…。
俺はおもむろに立ち上がると、部屋の隅まで歩いていってゴミ箱を覗き込んだ。
｢やっぱり……。｣
そこには封を開けることもなく、ゴミ箱の中に捨てられたチョコの山。
もったいない事を！
しかも、俺が貰ったのと確実にランクが違う。
包装紙やリボンがやたら高級そうだ。
｢お前なあ、人から貰った物をホイホイ捨てるなよ。｣
あんまりじゃないか、と心の中で呟いてみる。
もちろん、この手の問答が直人相手に無駄なことは百も承知だけど。
｢そんなこと言ったってさ。食べ物だぜ？ロクに知らないような相手から貰ったのなんかイヤじゃないか。｣
予想通り、抗議の声が返ってきた。
そもそも、どうしてロクに知らない相手がこんな高級そうなのくれるんだか。
｢捨てるくらいなら受け取らなきゃいいだろ。｣
｢貰っておかないと嫌われるじゃないか。｣
当然のごとく言い切られて、軽く頭痛がした。
｢…………。｣
受け取って捨てる方が酷いと思う。
こいつ、相手の気持ちは絶対考えてないよな。
直人にこういうのをわかってもらうには、まだまだ先が長そうだ。
俺は思い切りため息をついた。
高校生の時から覚悟してた事だしな。
気長にいくしか…
そこでふと、思い出す。
｢あ！そんな事言ってお前、高校の時俺に余ったチョコ寄越しただろ？
自分は食べたくないとか言うくせに、酷いぜ。｣
ううっ。あの時は1個も貰えなかったんだっけ。
自分で言って嫌なこと思い出しちゃったな。
｢あれは…｣
珍しく直人が言葉に詰まった。
一瞬躊躇うように視線を彷徨わせた後、俺を見据えて言い放つ。
｢…俺が！…他の女から貰った物なんか、しんちゃんに渡すわけないだろ！｣
え？
えーと、それは…。
｢お前、あれわざわざ用意したのか！？｣
｢…そうだよ。｣
気まずそうに直人が視線を逸らした。
確かあの時は、誰からもチョコが貰えなかった俺に直人がくれたんだ。
余ってるから1個くれてやるよ、って。
でも、それが俺の為に用意されてた物だったなんて…驚いた。
｢じゃ、なんでわざわざ余ったからなんて言ったんだ？｣
俺はもう直人といる事を決めた後だったし、堂々とくれたってかまわないのに。
けれど直人は、わかってないなとでも言いたげにため息をついた。
｢…あの時点で、俺から本命のチョコなんか貰ったらお前引かなかったって言えるか？｣
｢あー…それは…。｣
引いたかも。
直人の側に居ようとは決めてた。
だけど、学校で堂々と本命のチョコをいただくのは遠慮したいと思ったかもしれない。
｢だから、ああやって渡せば何も考えないで受け取ってくと思ったんだよ。｣
｢う、うん。ありがとう。｣
少しかみ合わない返答をしながら、俺は別の事を考えていた。
あの頃の直人はまだ不安だったのかな。
受け取ってもらえなかったり、引かれたりしたら傷つくから。
そう思うと直人が人からとりあえず物を受け取るのは、ある意味思いやり……なワケないか。
まあ、当時直人がかなり気を使って俺へのチョコを用意してた事はわかった。
それなら、
｢今年もある…とか？｣
｢でも、貰ったんだろ。｣
ぷいと横を向いたまま直人が答える。
その拗ねた様子がおかしくて思わず笑ったら、睨まれた。
さっきがっかりした顔してたのは、俺がチョコ貰ってたら前と同じ手では渡せないからか。
そう思うとやっぱりおかしい。
本当にいつでも俺に対しては一生懸命で微笑ましくて、そこがまた可愛……
いや、今考えるのはやめとこう。
とにかく拗ねっ放しの直人をそのままにするわけにもいかず、
俺は油断するとすぐほころびそうな口元を必死で引き締めた。
｢うん。俺、義理チョコは貰えたけど、結局本命は1つも貰えなかったんだ。｣
｢……。｣
ちら、と直人が横目でこちらを見た。
それからいつもの不敵な笑みを浮かべる。
｢しょうがねえなあ。じゃあ、俺が1つ分けてやるよ。｣
そう言うと、引き出しから淡いピンクの小さな箱を取り出して俺に放って寄越した。
箱は綺麗な円を描いて俺の手の中に納まった。
｢ありがとう。これ、本命？｣
｢そ、本命。俺からの本命チョコなんてこの世の中に1つしかないぜ。｣
だからありがたく思え、とでも言い出しそうな勢いだ。
さっきまでふてくされたりしてたのにな。
｢はいはい。じゃ、開けちゃうぜ。｣
包みを解きながらそっと直人の表情を盗み見た。
よっぽど俺の反応が気になるのか、妙に神妙な顔で待っている。
ああもう！
本当に全く、こいつってば…。
2月中旬、冬真っ只中のバレンタインデー。
だから、いいよな。
今日はそういう日って決まってるんだ。
チョコを売りたかったお菓子会社と、口実がないと動けない不器用な人間の思惑が一致した日。
だから…。
俺はすぐ側で包みの行方を気にしている直人の肩に手をかけて、思い切り抱き寄せた。
｢ええっ！？…しんちゃん……？｣
耳元で聞こえる直人の慌てた声が心地よかった。
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