| 夕焼けの街 |
真っ赤な夕日がゆっくりと西の空に沈んでいく。
(夢だ・・・。)
俺は心の中で小さく呟いた。
そう、これは夢。
もう嫌になるくらい何度も見ているからわかる。
お決まりの悪夢だった。
過去の事を思い出しているだけの夢。
わかっているのにどうしようもない。
何度見ても慣れないこの夢が俺に孤独を思い知らせる。
繰り返し繰り返し。
自分の事なんて誰も必要としてない、と。
夕日がゆっくりと沈みはじめ、足元には影が長く伸びていった。
家路につく人々の歩みは速く、雑踏の中で途方にくれる小さな子供になど誰も目をくれない。
風が夜の空気を運んできて、少しずつ体が冷えていく。
見知らぬ街でただ一人、俺は夕焼けを眺めていた。
行き先などありはしない。
帰る場所もわからない。
歩き疲れた体は鉛のように重かった。
助けが来ない事も知っている。
本当に忘れてしまいたいのに、何故この時の夢ばかり見るんだろう・・・？
そう、これはもう今から十年も前の事・・・。
その頃、俺は母親と二人で小さな家に住んでいた。
父親は元々いなかったし、母さんにも特別可愛がられた思い出もなかった。
だけど、それを気にした事もなかった。
世の中そんなもんだろうと、諦めていたのかもしれない。冷めた子供だった。
学校で、得意げに家族旅行の話をする連中を羨ましいとも思わなかったから。
ただ、時々・・・親父が来て、その時だけ母さんが嬉しそうだった。
母さんは綺麗に化粧をして、そんな日の夕飯は決まって豪華で、それが俺の密かな楽しみだった。
けれど、いつからかぱったりと親父は来なくなって、代わりに来る男は毎回違っていた。
小さな楽しみがなくなって残念だったけど、どうでもいいと思ってた。
それが大きな間違だったと気付いたのはしばらく後のことだった。
目が覚めたら部屋に人の気配がなかった。
母さんがいないことに気付くまでに5分、それから母さんの大切にしていた
化粧ポーチだのお気に入りの洋服だのがなくなっていることに気付いたのは2時間後。
気付いてぞっとした。
何故、そんなに色々な物がなくなっているのか。
何故、母さんは今ここにいないのか。
なんで、なんで、と心の中で反芻した。
答えは既に知っている気がする。でも、考えたくない。
「嫌だ・・・っ！そんなの・・・っ。」
否定したい思いでいっぱいだった。
母さんは出て行ったんだ。しかも二度と戻らないつもりで。
「そんなの･･･っ！信じない・・・。」
急いで着替えてそのまま家を飛び出した。
あてなんかない。
行き先もわからない。
もう何時間も前に出て行ったかもわからない母さんを
歩いて追いかけて追いつくはずがないことはわかってた。
でも、いてもたってもいられなかった。
怖くて、怖くてそれだけで走った。
「母さん・・・母さん、どこっ」
半分泣きながら走って走って・・・息が切れて立ち止まり、また走った。
見覚えのある服を着た人を見かけては、回り込んで顔を覗き込み、落胆する。
それを繰り返して気がつけば夕方。
周りは見覚えのない風景。
思い切り迷子というやつだ。
(交番、行った方がいいかな・・・。)
けれど、すぐに気付く。
(迎えに来てくれる人なんか、誰もいないんだっけ・・・。)
(ぼく、捨てられたんだ・・・。)
今更のような現実が重かった。
(母さんにとって、もういらないって思われたんだ・・・。)
絶望がじわじわと足元からせりあがってくる。
母さんしかいなかった。
父親も親戚もいない。友達も必要だと思わないから作らなかった。
(母さんがいなくなったら、帰る場所も、行くところもない・・・。)
体が急に冷えていくのがわかった。
周りにはこんなにたくさん人がいるのに誰も自分の事を振り返ろうとはしない。
「ひとりぼっちだ…。」
声に出したら余計に寂しくなった。
ここにいるのに、誰にも気付きもされない。
夕日が沈んで辺りが暗くなったらそのまま自分も一緒に溶けて無くなってしまいそうだと思った。
(こわい・・・。)
きっと自分が無くなっても誰も気が付かないし、探してもくれない。
とぼとぼと、再び歩き出した。
行くあてはないけれど、立ち止まったら消えてしまうような気がした。
ただ、歩くだけ。
何も考えず、ただただ歩くだけ。
寒くても泣きたくても、ただ歩く。
辺りがまた少し暗くなった。
疲れた足は棒のようだ。
時折、会社帰りのサラリーマンの重い鞄や、買い物帰りの主婦の大きな袋が、
脇をかすめたり、頭にぶつかったりした。
それでも誰も振り返らない。
(もう、いやだ)
泣き出したくなったその時、たまたま手が誰かのそれに触れた。
雑踏の中でぶつかっただけ、なのかもしれないけれど、暖かな手には不思議な懐かしさがあった。
(この手、知ってる気がする・・・っ)
すがるようにその手を掴んだ。
相手は驚いたようにこわばって、こちらを振り返った。背の高い・・・高校生くらいの男。
顔を見ようと思ったが、逆光になってよく見えなかった。
ただ、肩が小さく揺れて、その相手がため息をついたのはわかった。
やれやれ、仕方ない、というようなそれはどこか優しかった。
そして、手は振りほどかれなかった。
ほっとした。今この手を離されたらまた一人でこの寒い夜道を歩かなくてはいけないところだった。
繋いだ手が暖かい。
そこから伝わってくる温もりが冷え切った全身に行き渡るような気がした。
嬉しくなって歩き出した。
相手もまた一緒に歩く。
さっきまであれほど寒かった夜風はいつの間にか気にならなくなっていた。
辺りが夕闇に沈み始めても、もう怖くない。
太陽の変わりに夜を照らす灯りの数々が、遊園地のイルミネーションのようにさえ思える。
歩みも軽い。
行き先はわからないけれど、それならどこまでだって歩いていてもいい。
楽しいし、嬉しい。
今まで唯一の楽しみだった『父親の来る日』よりもずっといい。
(この人といると幸せでいられる気がする。)
それは確信に近かった。
誰だかわからないけれど、良く知っている誰かのようで。
この人はきっと自分をを捨てたりしない。
「ずっと・・・そばにいたいな」
見上げて呟くと、相手が微笑んだのがわかった。
ぎゅっと優しく手が握り返される。
暖かな手だった。
「………。」
眩しい・・・。
見慣れない天井が視界に飛び込んでくる。
「どこだっけ…ここ…」
俺の部屋じゃないよな。あ、隣に誰か寝てる・・・。
どこか・・・女の家にでも泊まったんだっけ？
えーと・・・窓の外が雪山・・・。
ああ。旅行、来てたんだっけ。兄貴と、美紗緒さんと女の子と、それから・・・。
「変な夢…見たよな」
いや、あの夢自体は見慣れてる。
あんな風に終わった事が無いだけで。
大体、あれは過去にあったことなんだから、結末変わるっておかしいんじゃないか。
真夜中にふらふらになって歩いていたのを見つかって、結局交番に連れいていかれる、ってオチ。
で、親父の家に引き取られる。
お決まりの悪夢。
だけど、今朝の夢はちっとも悪夢じゃなかった。
むしろ幸せで暖かくて安心して……、まだ手に夢の温もりが残っている気がする・・・なんて。
馬鹿馬鹿しい。あれは夢だろ、夢。
結局、俺は誰にも顧みられることもない存在だって、そんなことは良くわかってるのに・・・。
だから温もりが残っていると思うのも気のせい。もう忘れよう。
そう思いながら、俺は起きようとして手を布団の中から引き上げた。
「っ！？」
一瞬、息を呑んだ。
温かいはずだ。
その手は夢の中と同じに傍らの相手とつながれていた。
隣に今も気持ち良さそうに寝ている男がいる。
腐れ縁の友人で、無類のお人好し。
夢の中で握ったと思ったのはきっとこいつの手、だ。
文化祭の日に一度だけ、手を繋いだ事がある。だから覚えていたのか・・・。
とにかく一晩中、その手が離される事はなかったんだろう。
本当に呆れるくらいのお人好し。
鼻の奥がつんとした。
目頭が熱い。
このままいたら、泣きそうな気がする。
相手を起こさないようにそっと、俺はその手を離す。
離れていく温もりが名残惜しい。
それを必死で振り切って洗面所に駆け込むと、顔を洗った。
切れそうなほどに冷たい冬の水が、神経を覚醒させていく。
いっそこの想いを告げてしまおうか。
決して一生言わないつもりだったこの想いを。
今なら言えるし、きっと今しかないだろうと、そう思った。
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